ハンマークラヴィーア(Hammerklavier)とはドイツ語でピアノを意味します。
ドイツ語で Grosse Sonate fur des Hammer-Klavierと印刷された初版出版表紙は、フランス語表記の Grande Sonate pour le Piano-Forte と同義で他のソナタでもしばしば見られ、「ハンマークラヴィーア」という表示が最初に使われたのは作品101(第28番)だった。
1817年1月9日から同23日までの間にベートーヴェンは出版社のジークムント・アントン・シュタイナー本人(陸軍中将殿)、あるいは番頭頭のトビアス・ハスリンガー(優れた副官殿、あるいは、帝国第二ごろつき野郎殿)宛てに10通の手紙を書いている。作品出版についてさまざまな意見を述べたものだが、再三繰り返される興味深い注文がある。要約すれば「これ以降、全ての我々の作品ではドイツ語によるタイトル表記とし、ピアノフォルテに代わってハンマークラヴィーアと表記すべし。我らが最良の陸将ならびに副官および全関係者は直ちにこの指令を実践に移されたし」というものだ。総司令官からのこの指令が最初に身を結んだのが、1817年2月にエルトマン男爵夫人ドローテア・カタリーナ(1781〜1849)への献辞をつけて初版刊行されたピアノ・ソナタ「イ長調」作品101だ。
このようなドイツ語による呼び名は、それ以前の鍵盤楽器である、ハープシコ-ドやクラヴィコードと区別したいという気持ちを強調したかったためと思われる。そこには、当時一般に使用されていたイタリア語によるピアノフォルテという名称に対して、ベートーヴェンは作品90頃から発想表示をドイツ語で書き始めたりして、いわば国民主義的な考えの現れがそこにあったのではないかとも言えよう。
しかし、今日では「ハンマークラヴィーア・ソナタ」といえば作品106の代名詞のように思われているが、1817年秋に着手されているベートーヴェンの晩年創作期の入り口にありながら、作品106の「変ロ長調ソナタ」、古今のピアノ・ソナタの最高傑作と評される、いわゆる《ハンマークラヴィーア》は、すでにピアノ・ソナタの金字塔を築いている。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ中では最大の長さで、全曲演奏するにはおよそ40分もかかります。高度な演奏技術が必要で、当時演奏できたピアニストはいなかったようです。それでも作曲から約20年後、リストやクララ・シューマンはこの曲をレパートリーにしていたのだそうです。天国からベートーヴェンがそのことに喜んだことは明らかで、彼は将来に於いても〝ベートーヴェンの音楽〟は演奏され、後世の人々が愛好していることに自信を持っていたようです。
また当時この曲を演奏するには、2台(2種類)のピアノを並べる必要がありました。ハープシコードやクラヴィコードと行った鍵盤楽器から進化したピアノという楽器。ベートーヴェンのピアノ・ソナタはピアノの発展に合わせて音域が拡大されていき、ピアノはベートーヴェンのピアノ音楽に合わせて進化し、充実していきます。シュトライヒャーは高音域を拡大した新しいピアノをベートーヴェンに贈ります。そのピアノを以て、作品106の作曲が開始されますが、その第2楽章を完成したところに、ブロードウッドが最低音を拡大した新型ピアノをもたらしました。ピアノ筐体のサイズが有り、鍵盤数は同じでしたから、当時この曲を演奏するには、第1楽章〜第3楽章はシュトライヒャーのピアノでないと高音部が演奏できず、第4楽章はブロードウッドのピアノでないと低音部が演奏できなかい事情があったからです。全32曲のピアノ・ソナタ中10曲ある4楽章制ピアノソナタの最後を飾る大曲で、最後の3つのピアノ・ソナタは全3楽章から2楽章へと回帰している。
なお、この曲の自筆譜は散逸してしまっている。そのため、第3楽章を作曲中の時期にブロードウッドを手に入れた経緯があったとは言え、何故この様な形で完成となったのか詳しい理由は不明であるが、先にも記した様にベートーヴェンは第3楽章の作曲の途中時期に低音をC1まで演奏できるブロードウッドを入手しており、その影響かどうかは判らないが63小節目にはシュトライヒャーでは演奏が不可能な〝低音のD1〟が出てくる。その一方で同じ第3楽章にはブロードウッドでは演奏不可能な〝高音のcis4〟が出てくる。つまり、第2楽章までをシュトライヒャーのピアノで弾き終えて、ブロードウッドのピアノに座り直して弾き続ける。のではなく、2台のピアノを行き来しないといけないということになる。実際のステージで演奏は不可能だ。
もっとも、このD1は初版にはなく、該当箇所にはD2の下に「8」と読める文字があることから、通例として1オクターブ下のD1を追加しているものと考えられるが、ベートーヴェンにしては珍しい指定方法である。ベートーヴェンは演奏不可能な音符をピアノ独奏曲の場合書かない為、再版の際に〝低音のD1〟に直したのは何故か。ベートーヴェンの時代はピアノを含め様々な楽器の改良・発展が盛んであった為、全楽章を一台で弾く事のできるピアノの登場はそう遠くなく実現するだろうと予測しての事である。事実、作曲から約20年後、リストやクララ・シューマンはこの曲をレパートリーにしていたのだそうです。
加えて、作曲当時はベートーヴェン本人以外にこの曲を弾ける人間がおらずとも、彼が「50年経てば人も弾く!」と語っていた事から考えても、あまり作曲当時の演奏環境にこだわらなかったものとも考えられる。「このソナタは押しつめられた状況下で書かれました。なぜなら殆どパンのために書くのは辛いことだからです」と本人の証言が残っており、時間がなかったことが一因とみられている。この曲の第4楽章以降に作曲されたベートーヴェンのピアノ曲は基本的にブロードウッドを想定して書かれている。長寿の作曲家の中には、若いときの作品を晩年に手を入れる作曲家もいれば、若書きの作品を燃やしてしまった作曲家もいる。彼にこの曲に再び手をかける時間が許されていれば、第1楽章、第2楽章に〝低音のD1〟を書き加えたかもしれない。