静かで叙情的な旋律が印象的 ― 初めて「ハンマークラヴィーア」と表記された〝国民主義的な考えの現れ〟を聴き比べる。

amadeusrecord

2020年10月27日 23:54


初めて「ハンマークラヴィーア」と表記された作品。

戦後の混乱、私生活上での失望などにより作曲の筆が進まなくなっていたベートーヴェンであったが、1815年に作品102のチェロソナタ(第4番と第5番)を書き上げ、翌年には歌曲集『遥かなる恋人に』を完成させた。これらに続く形で完成されたのが作品101のピアノソナタである。作曲はほとんどが1816年の夏に行われ、原稿には同年11月の日付が見られる。
こうして生まれた本作はベートーヴェンのロマン期・カンタービレ期から後期への橋渡しをする入り口となる作品である。即ち、この作品は第26番『告別』や第27番のソナタのような豊かな歌謡性を備えながら、孤高の境地へと達する後期のスタイルの特質を併せ持ったものである。アントン・シンドラーによると、作曲者自身はこの作品が「印象と幻想」を内に有すると語ったという。
曲はドロテア・エルトマン夫人(旧姓 グラウメン)へと献呈された。メンデルスゾーンやシンドラーも称賛したほどの優れたピアニストであった彼女は、このとき既に10年来のベートーヴェンの弟子であった。夫人の演奏を高く買っていたベートーヴェンは1817年2月23日の書簡で「かねがねあなたに差し上げようと思っていたもので、あなたの芸術的天分とあなたの人柄に対する敬愛の表明になるでしょう。」と書き送ってる。

今日《ハンマークラヴィーア・ソナタ》という名で親しまれている「ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調」は明日ご紹介しますが、「ハンマークラヴィーア」という表示が最初に使われたのはこの作品101だったようです。今日では「ハンマークラヴィーア・ソナタ」といえば作品106の代名詞のように思われているが、作品101以降のピアノ曲初版譜では「ハンマークラヴィーアのための」という表記が一貫して見られる。
このようなドイツ語による呼び名は、それ以前の鍵盤楽器である、ハープシコ-ドやクラヴィコードと区別したいという気持ちを強調したかったためと思われる。そこには、当時一般に使用されていたイタリア語によるピアノフォルテという名称に対して、ベートーヴェンは作品90頃から発想表示をドイツ語で書き始めたりして、いわば国民主義的な考えの現れがそこにあったのではないかとも言えよう。
1817年1月9日から同23日までの間にベートーヴェンは出版社のジークムント・アントン・シュタイナー本人(陸軍中将殿)、あるいは番頭頭のトビアス・ハスリンガー(優れた副官殿、あるいは、帝国第二ごろつき野郎殿)宛てに10通の手紙を書いている。作品出版についてさまざまな意見を述べたものだが、再三繰り返される興味深い注文がある。
要約すれば「これ以降、全ての我々の作品ではドイツ語によるタイトル表記とし、ピアノフォルテに代わってハンマークラヴィーアと表記すべし。我らが最良の陸将ならびに副官および全関係者は直ちにこの指令を実践に移されたし」というものだ。総司令官からのこの指令が最初に身を結んだのは、1817年2月にエルトマン男爵夫人ドローテア・カタリーナ(1781〜1849)への献辞をつけて初版刊行されたピアノ・ソナタ「イ長調」作品101だ。
楽譜の出版は1817年2月、ウィーンのシュタイナーから行われた。ピアニストのアンドラーシュ・シフは、本作と同時期に作曲されたチェロソナタ第5番が構造的に非常に類似していることを指摘している。

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