伯爵の恋愛譚 ― 中期の作品群とは性質を異にする情感が込められた〝ロマンティック・ソナタ期〟を開いたソナタを聴き比べる。

生涯ピアノ・ソナタを書きつづけたベートーヴェンですが、この27番は「ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調《告別・不在・再会》」以来4年ぶりのピアノ・ソナタ。
ライプツィヒの戦いでナポレオン率いるフランス軍が敗退したことにより、ヨーロッパの勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。この頃、ベートーヴェンは各地で有力者らに囲まれ、名士としてその名が広く知れ渡るようになる。
一方で、創作活動においては長期的なスランプに陥っていた。戦争に起因する様々な不都合、進行する聴覚の衰え、経済的な苦難、結婚への望みが絶たれたことによる失意により、作曲の筆は遅々として進まなくなっていた。さらにオペラ『フィデリオ』初演の準備にも時間を割かねばならず、これらが相俟ってピアノ・ソナタのジャンルでは『告別ソナタ』以来、4年の歳月が流れていた。
浄書譜には1814年8月16日と書き入れられている。曲はウィーン会議のイギリス代表に『ウェリントンの勝利』への報酬支払いを働きかけてもらったことに対する返礼として、モーリッツ・リヒノフスキー伯爵に献呈された。
この曲はリヒノフスキーの恋愛譚を音化したものだと伝えられている。この曲はアントン・シンドラーによれば、「第1楽章は『理性と感情の戦い』、第2楽章は『恋人との対話』である」と書くべきものだと、ベートーヴェンが語ったのだそうです。
時は1796年、リヒノフスキー侯爵はベートーヴェンをベルリンに連れて行って、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に会わせようとした。この王様は先代の〝フリードリヒ大王〟のようにフリーメーソンとして高い位にあったわけではないが、晩年の先大王が「裏切りと陰謀の司祭」と恐れたヴェルナーの誘いで薔薇の騎士団に入団して降霊術にはまり、宮殿の離れで儀式三昧をし、神秘主義家の妻を持つリヒノフスキーとはおそらくそちらでも顔を合わせる間柄であった。リヒノフスキー侯爵は7年前にはモーツァルトを連れて、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に会わせている。
モーツァルトが変奏曲を捧げた伝説のチェリスト、デュポールに会い、プロイセン宮殿の音楽家の水準の高さに目を見張り、その中でも王の甥でありながら「決して王族のようでなく、ただひたすらに達者なピアノを弾く…」ルイ・フェルディナント王子との出会いはベートーヴェンに決定的な印象を与えた。
ベルリンでの出会いでベートーヴェンが感じたのと同じもしくはもっと強烈な印象を、ルイ・フェルディナント王子はベートーヴェンに対して抱いていた。
王子はベートーヴェンがウィーンで書いた作品を手に入る限り手に入れ、その主題や展開を手本にして大量に作曲し、デュポールやヴァイオリンのピエール・ロードと演奏した。
戦略家としても優れていたルイ・フェルディナント王子はナポレオンとの戦争においても戦功をあげていたが、音楽を片時も手放したことはなく、1804年にウィーンに立ち寄った際にもベートーヴェンを訪ね、ベートーヴェンは長年かけて書き上げたピアノ協奏曲 第3番をルイ・フェルディナント王子に献呈した。
1806年、ウィーンにおいてもナポレオンの戦火が激しくなる中、ルイ・フェルディナント王子が戦死したという知らせがベートーヴェンのもとに届いた。交響曲第3番の『英雄』がルイ・フェルディナント王子のことであるというのは、いくつかある説のひとつではあるけれど、ともかくベートーヴェンの落胆ぶりはすごかったらしい。
ルイ・フェルディナント王子の死が呼び寄せたものであるかのように、ベートーヴェンは比類のない名作を次々と生み出した。
ルイ・フェルディナント王子には妹がいて、その妹ルイーゼはポーランドのラジヴィル侯爵と大恋愛の末に結婚し、ベートーヴェンは「歓喜の歌」の原型の一つである序曲「命名祝日」op.115を侯爵に捧げている。ラジヴィル侯爵夫妻は後にショパンそしてメンデルスゾーンの有力なパトロンとなり、それぞれから一番最初の室内楽作品を献呈されている。
降霊術に熱心だったフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の次に王座に就いたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、ベートーヴェンは交響曲 第9番を献呈した。その返礼としてフリードリヒ・ヴィルヘルム3世からは指輪が送られたが、ベートーヴェンはそれをすぐに質屋に売ってしまった。
さて、リヒノフスキーがベートーヴェンからこの作品の献呈を受けたのは細君を亡くした後、リヒノフスキーは著名なオペラ歌手シュトゥンマーに恋するが、兄の身分差別により結婚は許されなかった。兄の死後ようやく二人は結ばれた。
作曲者はこの頃から、発想表記にドイツ語を使用するようになる。並行して楽譜中への強弱や表現に関する書き込みが増加しており、歌謡的といえる長いフレーズが取り入れられていたりと、中期とは違った、後期作品の特徴 ― 自らの目指す音楽をより正確に記述しようという意志が垣間見える。
小節線をまたぐ長いスラーを付して歌謡的旋律を中心に据えた構成はシューベルトにも影響を与えた。第22番に続く全2楽章のピアノ・ソナタであるが、短いながらも高度な作曲技法が盛り込まれている。また、2楽章制ソナタを数多く遺した師のハイドンへの回帰と考えることもできる。
オペラや声楽作品とも関連する充実したものです。出版成立には、経済的な問題が絡んでいました。
ベートーヴェンは年金収入だけでは解決できない経済的苦境を、作品出版によって改善しようと努める。これまで主要作品はほとんどブライトコップフ・ウント・ヘルテル社から出版してきたが、このころから地元ウィーンのアントン・シュタイナー社から主に出版するようになる。2年前に弟カールの経済的困窮を援助するために、シュタイナーから1500グルデンを借りて弟に与えていたのだが、カール自身は返済できず、ベートーヴェンが無償で作品を提供することになったのである。ピアノ・ソナタ作品90、つまり当ソナタを無償で提供し、作品91〜97、113、115〜117、136の計12曲の出版権をシュタイナーに譲渡したのである。楽譜は1815年6月にシュタイナーから刊行された。
譲渡作品の中には交響曲第7番、第8番、ピアノ三重奏曲《大公》、《ウェリントンの勝利》など、近々のベートーヴェンの代表作が含まれていました。シュタイナーはこれらのパート譜やスコアだけでなく、ピアノ連弾や弦楽器だけで演奏できる編曲版も出版。これらの楽譜は作品の普及に大いに貢献し、ベートーヴェンも最終的には大満足だったようです。ベートーヴェン個人の生活を救済したばかりでなく、現代に於いて、いや、ベートーヴェンの死後から他の作曲家の作品以上に音楽を愛好する市民層に親しまれ、後世の作曲家の全てと言ってもいいほどに影響を与え、彼らの音楽の才能を刺激してきた。