善光寺に五重塔を 一生に一度 百年に一度 なればこそ、燃やしてしまえ

谷中の五重塔焼失(1957(昭和32年))
心中放火で焼失した。再建はされず礎石だけが残る。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルでもある。
天王寺(旧名・感応寺)の五重塔は、江戸時代の1644(正保元)年に創建されたと伝えられる。1772(明和9)年の大火でも寺の諸堂とともに焼失したが、1791(寛政3)年に再建された。幸田露伴の小説『五重塔』(1891~92年)のモデルとなったことでも知られる。
天王寺の五重塔は、東照宮・増上寺・浅草寺の五重塔と並ぶ「江戸四塔」のひとつに数えられたが、増上寺と浅草寺の塔は1945年の東京大空襲で焼失し、この火災により東照宮の塔(明治に入り寛永寺に譲渡)を残すのみとなった(浅草寺の塔はその後1973年に再建)。
いまから60年前のきょう、1957(昭和32)年7月6日午前3時45分ごろ、東京・谷中霊園にある天王寺の五重塔から出火、同5時、80坪を全焼してようやく鎮火した。焼け跡から男女二人の焼死体と遺留品などが発見され、警視庁と谷中署は火災の原因を心中による放火と断定する。
火災直後、露伴の次女で作家の幸田文は焼け跡を目にして、「美しいだけに、前からこの塔は火事にかかりそうな気がしていたのですが、とうとう……。焼跡に残っている残ガイほど惨めなものはないと、父はよくいっていました。こんなところでそれを実感しようとは思いませんでした」と語った(『朝日新聞』1957年7月6日付夕刊)。
なお、天王寺五重塔の火災は、佐々木譲の小説『警官の血』(2007年)の題材にもなっている。
心中放火で焼失した。再建はされず礎石だけが残る。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルでもある。
天王寺(旧名・感応寺)の五重塔は、江戸時代の1644(正保元)年に創建されたと伝えられる。1772(明和9)年の大火でも寺の諸堂とともに焼失したが、1791(寛政3)年に再建された。幸田露伴の小説『五重塔』(1891~92年)のモデルとなったことでも知られる。
天王寺の五重塔は、東照宮・増上寺・浅草寺の五重塔と並ぶ「江戸四塔」のひとつに数えられたが、増上寺と浅草寺の塔は1945年の東京大空襲で焼失し、この火災により東照宮の塔(明治に入り寛永寺に譲渡)を残すのみとなった(浅草寺の塔はその後1973年に再建)。
出火の原因は、心中による放火だった
いまから60年前のきょう、1957(昭和32)年7月6日午前3時45分ごろ、東京・谷中霊園にある天王寺の五重塔から出火、同5時、80坪を全焼してようやく鎮火した。焼け跡から男女二人の焼死体と遺留品などが発見され、警視庁と谷中署は火災の原因を心中による放火と断定する。
火災直後、露伴の次女で作家の幸田文は焼け跡を目にして、「美しいだけに、前からこの塔は火事にかかりそうな気がしていたのですが、とうとう……。焼跡に残っている残ガイほど惨めなものはないと、父はよくいっていました。こんなところでそれを実感しようとは思いませんでした」と語った(『朝日新聞』1957年7月6日付夕刊)。
なお、天王寺五重塔の火災は、佐々木譲の小説『警官の血』(2007年)の題材にもなっている。