池田屋襲撃 沖田総司が昏倒したのは、吐血ではなく熱中症だった

新撰組、池田屋襲撃
元治元年(1864)6月5日の夜、京都・三条の池田屋に集まっていた肥後藩の宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔磨ら十数人の浪士を、新撰組の近藤勇、沖田総司らが襲撃した。池田屋では、闇の中で2時間余の乱闘がくり返され、近藤勇らは7人を斬り殺した。その後、かけつけた会津藩士ら残りの浪士を生け捕りにした。新撰組はこの襲撃で一躍有名になり、会津藩から500両のお手当があった。また、念願の藩臣登用の道が開けた。「池田屋事件」というものは、過激派志士が目論んでいた御所焼き討ちや、天皇拉致といったテロ計画を未然に防いだというもの。近年の大河ドラマ、時代劇では、坂本龍馬が重用される傾向が強くて、新選組が押し入ってきたことだけが浮き彫りとなってしまっている。
さて、戦いの最中に沖田総司が戦線離脱するということになる。永倉の手記には「(体調を崩して)屯所に引き取った」と書かれ、近藤の手紙には「昏倒した」とだけ書かれており、「喀血」「血を吐いた」などの言及はない。
肺結核で喀血するなら、病期としては相当に進んでいるはずなので、周囲にも気づかれるはずです。感染・発病していたとしても深刻な状態ではなかったのかもしれません。時期的に熱中症などという可能性があるそうですが・・・でもやっぱり喀血したという方がドラマティックだなと思ってしまいます。
池田屋の建物は1960年頃まで残っていたそうですが、やがて解体され、跡地にはパチンコ店などができました。現在は居酒屋になっており、池田屋を意識した内装になっています。