何を弾いてもグルダになる ― と自ら語るほど、癖のある性格で、癖のある演奏をした。

天才のアウトロー
フリードリヒ・グルダは1930年5月16日、ウィーンで生まれた。彼も多くのピアニスト同様神童と呼ばれた才能豊かで、12歳でウィーン音楽院に入学し、16歳でジュネーヴ国際音楽コンクールに優勝した。日本では太陽族、音楽産業の分野ではザ・ビートルズが登場する気風を背景にして、彼の才能は多方面に向けられており、25歳の時マルタ・アルゲリッチを指導するなど、多くの生徒を持つ一方で、ジャズに傾倒しジャズを弾くためにコンサートをキャンセルすることもあった。
また、1956年のニューポートのジャズフェスティバルへの出演をはじめ、ジャズのメッカと言われる「バードランド」でも演奏するなどジャズの分野でも名を馳せた。さらに、グルダは即興演奏(アドリブ)が得意で、しばしば作曲もしている。逸話として、あるピアノ・コンサートで曲目が終わりアンコールの時になり、グルダが聴衆に向かって「何か聞きたい曲あるかい?」と聞いたすぐ後、客席から「アリア!」との声があり、すかさず「グルダのだね!」と言って〝グルダの『アリア』〟をピアノで弾いたという。グルダが作曲や即興にも優れていたことを表している逸話である。
問題はグルダが施した装飾がモーツァルトの音楽が本来持っている和声や旋律の本質を損なっているのかどうかが問われなければならなかったのですが、一連のグルダの演奏を聞いて少なくない反響は巻き起こり、その大部分は批判的なものだったのですが、その批判の根拠の大部分は「原典」からの逸脱でした。残念なことに、グルダ自身が望んだであろう自らの装飾が、モーツァルトの音楽が本来持っている和声や旋律の本質を損なっているのか否かと言うことは殆ど無視されてしまいました。
この後、グルダはクラシックからの撤退とジャズへの転向を表明するのですが、それは、自分としては渾身の思いで問うた試みがほとんど真っ当に評価の俎上にすら載らなかった事への絶望感みたいなものがあったからかもしれません。
クラシック界での名誉を突然放棄し、装束をキュロット帽、たまにバンダナと平服に改め〝音楽は自由なはず〟という強い信念を持ち続け、ピアノ以外の楽器の習得やジャズ・ロック関係のミュージシャンらと共演し、はたまたビッグバンドまで結成して活動していた。交友関係も広く、ジャズピアニストのチックコリアとはお互いにクラシックとジャズを教えあう関係だったそうである。
そして、あるインタビューでは「何を弾いてもグルダになる」と自ら語るほど、癖のある性格で、癖のある演奏をした。とは言ったものの、幸いなことに、グルダ自身はジャズピアニストとしては「上手く」ならなかったと評価できるだけの自己批判力は持っていましたので、ジャズも続けながら再びクラシックの世界にも戻ってきてくれました。やはりグルダはクラシックピアニストであり、特に有名なものはベートーヴェンとモーツァルトである。
賛否両論分かれるであろうとんでもない演奏
モーツァルトはデモーニッシュな「ニ短調コンチェルト」を仕上げてから一ヶ月もしない間にこの天国的に美しいコンチェルトを仕上げた。1967年のスウェーデンの映画「みじかくも美しく燃え(Elvira Madigan)」で劇中ではヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』とともに使用されたモーツァルトの『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』。その一ヶ月の間この協奏曲の作曲だけに集中していたのではなくて、その間に公開演奏会や私的なコンサート、さらにはザルツブルグからやってきた父親のレオポルドをもてなすためのパーティーを開き、さらには多くのピアノの弟子達にレッスンを行っていた。
つまりは、そう言う依頼の「儲け仕事」や「接待」の合間に時間を見つけてはこのコンチェルトを作曲したのです。さらに、驚かされるのは、この協奏曲はオルガンのような「足ペダル」がついた特殊なフォルテピアノを使うことを前提として書かれているのです。もちろん、その足ペダルは低音部の補強のためであり、幻想曲のような作品を即興演奏するときには良く用いていたようなのですが、協奏曲でこのような特殊な楽器を用いるのはこれが初めてでした。モーツァルトの「天才神話」は数多くあるのですが、これもまたその様な神話の一つを彩るエピソードだといえます。
有名な「ニ短調コンチェルト」が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。そして、続くこの21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
現在から振り返ると、「ニ短調コンチェルト」のデモーニッシュな音楽が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと、1960年頃のレコード解説では定番とされてきました。
モーツァルトの天才と、ウィーンの聴衆に間に断絶があったのか。作品の方は14番から19番の世界とはがらりと様変わりしているのは違いありません。一瞬地獄のそこをのぞき込むような「ニ短調コンチェルト」の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
ウィーンに出てきてからのモーツァルトは、演奏者のために器楽や歌の曲を書き与える作曲家である前に、ピアニストでした。ベートーヴェンが敬愛したモーツァルトはその姿であり、リストが後に続くスタイルを支度した音楽家であったのです。
表情と趣味をもって、装飾音を施すことが演奏家としての義務だと考えていたと言うモーツァルト。モーツァルトにとって自分が書いたピアノ音楽の楽譜というのは骨格部分を示すものであって、モーツァルト自身はピアノ音楽というものは楽譜に書かれたとおりの演奏するのではなくて、彼自身もそこに豊かな装飾音を付け加えて肉付けを行うのは当然と言うよりは、演奏家としての義務だと考えていたのです。
しかしながら、1950年台終わりに巻き起こったバロック音楽ブームで、「原典尊重」が絶対的な錦の御旗と掲げられる時代に変貌、これぞクラシック音楽のあるべき姿だったと、その様な考察を行うことに興味を持つ「勇気」は抑えこまれていったし、その様な装飾は恣意的に行っていいものではなくて、モーツァルト自身も語っているように「表情と趣味」をもって追加しなければいけないからです。施した装飾音がその音楽が本来もっていた和声や旋律の本質を損ねるものであれば、たちまちその演奏は「趣味が悪い」と見なされたのです。ですから、自らの考察に基づいて装飾を施すなどと言うことは世界的コンクールを生き抜くための音楽教育で成長したピアニストには恐すぎて出来るものではないのです。そして、その「恐い」事に果敢にチャレンジしたのがこの時代のグルダだったのです。
21番のハ長調協奏曲のオーケストラの前奏部で本来は沈黙しているべきピアノが突然鳴り出すのには驚かされましたし、装飾の範疇をこえて引用されるのは、あるはずのない音楽が挟み込まれていたりするので、それはいくら何でもアドリブが過ぎるかと思えるもの。ただし、モーツァルトが残した膨大な手紙から浮かび上がってくる彼の「人間性」は「奇矯」としか言いようがない性格を全開させてこの作品を演奏すれば、結構こういう音楽になっていたかもしれないと想像することは許されるでしょう。
しかし、そのような「奇矯」も音楽教育界の重鎮でもあったスワロフスキーが、〈もちろん、モーツアルトも、協奏曲で(独奏が休止していて)オーケストラが演奏されているときには、彼に振り当てられた通奏低音をピアノによってアドリブ演奏したので、独奏楽器は休んでいる暇がなかった。こうした習慣がなくなったことが協奏曲像を本質的に変えてしまった〉と考察したことが、理解として受け入れられていく古楽器演奏ブームが実を結ぶ兆しが見えていたアバドとのコンビで録音したウィーン・フィルを相手にするグルダは、これらの作品を極めて真っ当な形で再録音しています。
そして、そこにはデジタル録音時代を迎えたこともあるでしょう。〝どれくらいの音量で演奏されたのかが分からない〟アナログ録音は再生音が、演奏の評価を大きく左右すると言うことです。オーディオ好きの人には大音量派の人が多いもので、プリアンプのボリュームを上げれば上げるほどこの演奏が持っている「奇矯」さが際だつのです。パワーアンプで大音量を得てもらいたいのですが、抑え気味にして聞いてみると、十分にモーツァルトの音楽が持っている本質を損なってはいないように聞こえます。