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異説クラブ

これほど無神経、無責任な国があるだろうか ― 出版楽譜は誤植だらけ、詩は勝手に改竄され、歌手の発音も出鱈目。

橋本国彦

和製ポップスを拓いた服部良一は軍歌作曲の依頼から逃げるため上海に渡った ― 軍歌一色の中で数少ない抒情性あふれる作風が評価された。

ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人である服部良一は、1932年、当時のヒット曲「酒は涙か溜息か(藤山一郎)」を剽窃したような「酒は涙よ溜息よ(歌は黒田進こと楠木繁夫)」なる曲をタイヘイの指示で書かされるが、こういった仕事をすることに嫌気がさし、1933年2月ディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。だが、太平洋戦争が始まると服部が手がけるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。そんななか、1942年に渡辺はま子の『風は海から』、1943年に李香蘭の『私の鶯』などの佳曲を発表し、軍歌一色の中で数少ない抒情性あふれる作風が評価された。

菊田一夫の「君の名は」、西條八十の「若鷲の歌(予科練の歌)」、サトウハチローの「長崎の鐘」 ― テノールの美しい音色と格調のあるリートのベルカントで歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた古関裕而。

古関裕而については改めて語る必要もないが、山田耕筰、信時潔、橋本國彦といった留学組と違って、独学でオーケストラ曲を書き、日本人作曲家として初めて国際的な作曲コンクールで入賞を果たしている。メロディーだけ書いて伴奏部を編曲者に任せることの多い流行歌の世界でも、彼は自らオーケストラ・スコアを書いていた。「國民歌謠」では《愛國の花》や《南進男兒の歌》、「われらのうた」では《海の進軍》、「國民合唱」では《突撃喇叭鳴り渡る》などの器楽パートが印象的だ。「ラジオ歌謡」は昭和21年8月の《三日月娘》から、昭和36年8月の《山の男は雲と友達》まで実に41曲を書いているが、ピアノ・パートには古関お得意の不協和音が効果的に生かされている。NHK連続テレビ小説「エール」の主人公は、古関裕而をモデルにして窪田正孝が主演しているが、山田耕筰がモデルと思われる、志村けん演じる人物に見いだされるストーリーになっているが、リムスキー=コルサコフの孫弟子である古関と山田耕筰は学生時代から手紙の交流がある。
1922年(大正11年)、音楽家の多い旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した、古関裕而が商業学校に入ったのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、在学中に家業の呉服店が倒産した。
学校を卒業する頃、当時、日本でも有数のハーモニカバンドであった、福島ハーモニカーソサエティーに入団する。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキーなどである。
この辺りもNHK連続テレビ小説「エール」に於いては状況が前後されているが、商業学校卒業後、1929年(昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れない。
古関は作曲の勉強のための洋行をせずに、生活費のためコロムビア入社。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。その影響もあってか、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れる。
1935年(昭和10年)、古関が26歳の頃、新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んだ。

歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。日本の有望な若手作曲家となった橋本國彦。

その前年、橋本國彦が文部省の命により1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)の間、ウィーンに留学する。エゴン・ヴェレスに師事。アルバン・ベルクの歌劇『ヴォツェック』上演に接したり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏を聞く。帰国途中に寄ったロサンゼルスではアルノルト・シェーンベルクに師事するなど、積極的に新しい音楽を学んだ。帰国後は日本洋楽界きってのモダニストとして、作曲家・編曲家として活躍。日本ビクターの専属アーティストとして、自作を指揮した自作自演録音や、ヴァイオリン奏者としてのソロ・伴奏録音を大量に遺している。1943年5月13日、日本人として初めてベートーヴェンの第九(第4楽章のみ)を指揮して商業録音した。
歌曲作曲家としての橋本はすでに昭和3、4年頃に名声を確立していたが、戦中・戦後にかけてのNHKでの仕事も、時代と音楽家の関わりを考える上で重要である。彼は「國民歌謠」において、《總選擧の歌》、《母の歌》、《黎明東亞曲》、《國民協和の歌》を「橋本國彦」名で作曲した他、少なくとも「東京音楽学校作曲」として《大日本の歌》を書いており、それ以外の「東京音楽学校作曲」作品の中にも橋本の作品が含まれている可能性は高い。
彼は、専門家ではない大衆が歌うための作品は難しく書いてはならないと考え、最小の仕掛けで最大限の演奏効果をあげようとしたようだ。歌いやすい旋律線に対し、伴奏部にはスタッカートやレガートを細かく付けて演奏効果を狙っている。《大日本の歌》にせよ、《勝ちぬく僕等少國民》などの「國民合唱」にせよ、その特徴は、強弱や、テヌートとスタッカートの対比によるメリハリにあった。
敗戦後、NHKは昭和21年5月に歌番組の放送を再開した。橋本は《朝はどこから》を発表している。森まさるによる歌詞はまるで標語か何かのように味気ないが、作曲者はスタッカートを随所に用いることで、退屈さを避けた。橋本は8曲の「ラジオ歌謡」を書き、中でもタンゴとして書かれた《乙女雲》には、ビクターの専属でもあった橋本の流行作曲家としての一面が強く出ている。
天性のメロディストだった橋本は、日本にまだ管弦楽曲を書ける作曲家が数えるほどしかいなかった時代に、フランス印象派ばりの洗練された和声法を身につけていた。そのため、カンタータ『皇太子殿下御誕生奉祝歌』と、皇紀二千六百年の記念式典のための祝典曲(オーケストラ作品)を委嘱されたり、皇紀2600年奉祝曲としてハンガリーのヴェレッシュ・シャーンドルが日本に捧げた交響曲第1番をオーケストラは紀元二千六百年奉祝交響楽団で指揮を任されたりしたが、この活躍によって、戦後は苦境に追い込まれた。門下には、矢代秋雄を筆頭に芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。戦火に倒れた人々を追悼するために独唱と管弦楽のための『三つの和讃』、日本国憲法の公布を祝う『交響曲第2番』などを発表した。昭和24年5月6日に胃癌のため44歳で鎌倉にて他界した。その死は、彼自身にとっても、日本の作曲界にとっても、早すぎた。


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